子どもと学校を考える

学校と子どもと他殺と自殺の事件、本当にニュースを見ていて涙が出るほど哀しくやりきれないです。
私も、学友からも先生からもイジメの経験があるから。


孟母三遷の教え」
孟子のお母さんが、子どもの育成環境を考えて、二度も引越し(三軒目で落ち着いた)をしましたって話。
意地悪く言えば(確か阿刀田高清水義範の著作で読んだ?)、
「事前リサーチをせずに引っ越して、状況が悪かったのが後から判って二回も引っ越さなきゃならなかったのだから、必ずしも賢母じゃないだろ!」
ともツッコめますが、実際にその場にならないと本当に実情は判らない。
柔軟に引越しをした孟母は、やはり偉いと思います。


子どもが把握できる自分の世界は、本当に狭くて小さい。 教室と家が、生活の全てです。
そこから逃げたり、うまく身をかわしたりする可能性すら、考え付くことはできない。


正直に言ってしまえば、地域(地元)の公立の小中学校なんて、どんな家庭のどんな子がいても、おかしくはないのです。


例えば…


こちらから挨拶しても全く無視をしたり、ゴミを公道や他人の敷地に捨てたり、地域の生活を乱す親を見て育った子もあるでしょう。
外国籍の日本人の人、かつての被差別部落の出身の人、障がいのある人を、あからさまに罵倒し差別する親の子は、やはり、そういう子である確率が高い。
「バカヤロー!てめえ、静かにしろっつってんのがわかんねぇのかよぉ!」
と我が子に叫ぶ母親の子は、やはり口汚い言葉を使うでしょう。


高校と大学に入学して、一番感じたのは、やはりレベル(知的と言うか理性の)が高い社会の中では、比較的(皆無ではありませんよ)摩擦が少ないだろうということでした。
幸い、勉強は好きで成績も悪くなかった私。
受験に合格して入った学校では、単純に学校の成績の近い人々が集まることになるわけですが、入学した高校ではイジメなんてものは存在しないくらい、さばけて個性的で、自由。
価値観が合う合わないで、付き合いの濃淡はあっても、それを集団で排除するなんてばかばかしいことはありませんでした。
これが、学力レベルを落として転入試験を受けざるを得なかった地方の高校生活ではまた、話が変わってくるのですがね。


「誰とでも仲良く」と正論を言うのは、結構簡単なんですよね。
「誰でも色々な価値観の中で暮らしているから、何が正しいと自分の意見ばかり主張するのではなく、うまく聞き流すことも時には必要だ」
と子どもに教えるのは、本当に難しい。真面目に生活を送っていればいるほど、矛盾を感じることもあります。


だから、子どもには、色々な可能性と情報を提示する事が重要だと思います。
(ま、それをしない家庭の子は、結局それなりでしょうが…)
身近な大人である親と、一番小さい社会である家庭がしっかりしていないと、大事な子どもを守ることはできないかもしれません。