地震で思い出すこと

そう、1月17日は阪神・淡路大震災の日。


あの時、私は九州の会社員で、会社の企画広報担当だった。年四回の広報誌(営業ツール)を一人で企画・編集・制作していたのだ。
同僚はあの日、大阪への研修出張で朝から旅だったが、空港で足止めをくったという。本人も周囲の状況は、全くわからない状態。本社にいる私達も、よもや6000人以上が犠牲になった地震が起こったとは知る由も無い。
「どうも交通が混乱しているらしいのですが、どうしましょう?」
と上司に判断を仰ぐ電話に、
「とにかく状況がわからないから、何とかして会場まで行って、研修の実施を確認しろ。欠席になったら大変だ(資格認定の研修だった)。」
と指示を出した。結局彼は、夕方の便で何とか帰ってきた。
上司は後日、大変後悔していた。
「無理をさせて、部下を怪我や二次災害に会わせかねないところだった。」と。


とにかく、情報が無かった。そして、それから、情報が入る度に、戦々恐々となった。
宮仕えの辛いところでも有るのだが、その地震は、悪く言えば商機でもあったのだ。何故なら、当時勤めていた会社は、オフィスや図書館や倉庫の棚関係の製造を主としていたからだ。
そしてその近年は、製品に耐震・免震機能、安全設計をどう組み込むかの研究開発に力を注いでいたのだ。
丁度用意していた広報誌の内容は、地震のメカニズムから耐震・免震技術の説明、そして自社製品の地震への強さをさりげなくアピールする内容の記事だった。
一部内容を替え、設計や技術の担当者と会議を重ね、何とか発行できる形にまで持っていったのだが、ここで上層部から発行延期の判断が出た。この時期に、この内容の宣伝広報誌を発行するのは、震災の被害が大きいだけに、あまりに倫理的に外れた便乗と見られかねない、と。


しかし、いつもは付けない資料提供ハガキを巻末につけろと指示したのは社長自身だったのに。


微妙なところだった。自社製品を愛し、誌面内容にも自信を持っていた私は、それだからこそ、広く顧客の皆様に地震対策の知識を提供すべく、真面目に作ったつもりだった。それを、鶴の一声で、商魂逞しく売らんかなの内容に変更したくせに、一時延期にするなど。
丁度私は、退職の準備を並行してしていた時期でもあった。最後の仕事を終わりまで見届ける事が出来ないのは本当に残念だったが、あとは刷り上げるばかりの原稿と資料を残し、会社を去ったのだった(そして上京したのだ)。


後日、数ヶ月して、無事その広報誌は出来あがったと聞いた。